背景が見えてこないと酷く理不尽な言いがかりをつけられている気にもなりそうな事柄を1世紀以上前の文章に見つけた。なんとなく近頃の日本周囲のきな臭さと重なって見えそうなところもあったりなかったり。
明治32年の日本建築学会が発行した「建築雑誌」の第154号論説に寄稿された伊東忠太の「奈良大佛非露佛説」によると、日本の文学者、文学博士でありロマン派の重鎮である高山樗牛(たかやまちょぎゅう=高山林次郎)が雑誌「太陽」にて「東大寺の大仏殿じゃまじゃね?」と書いたことに対し、内務省技師で東大寺修復のために派遣された妻木頼黄(つまきよりなか)が諸新聞にて「はぁ?1000年も大仏さんを守ってきたのに何言ってんの?馬鹿なの?」と反論。当時既に建築業界の大御所でありながらフットワークの軽さで妖怪じみていた伊東忠太(ようかいだいせんそう)もどこぞの銀行屋みたいな稚拙な露佛論に呆れて、妻木技師の援護射撃を敢行するという流れ。
「露佛」ってのは屋外に屋根とか無しで露出した状態の大仏のことで、鎌倉の大仏とかに該当。対する「非露佛」は奈良の大仏のように建物内に収まっているやつのこと。
日本建築学会図書館では「妻木文庫」というところに建築家妻木頼黄の図面等をデジタルデータで公開中。明治修繕時の東大寺の実測図なんかも見れるポン。
ちょいと整理するけど、雑誌「太陽」の該当記事は未確認(国会図書館内のみ閲覧可能なデジタルライブラリにあるらしい。明治31年11月号~明治32年10月号までのどれかなので、探すだけでもめんどくせいデス)なので伊東記事によると、
①大仏はアオカンで逝って~ちょうだい(露出するのが大仏の
性癖性質なのだ!)
②大仏殿は大仏を保護しない。かえって、害をなすものなのだ!
③大仏殿って美観上、醜悪じゃね?
④大仏殿の維持費が超すごいんですけど~
以上の四点が高山”ロマン”文学博士の主張らしい。
続いて、妻木技師の反論は、
①聖武天皇が建立し、源頼朝が再建し、公慶上人が復興した1000年以上の歴史を否定すんなよな。
②構造力学の確立されていない時代に建てられた大型木造建築として世界に誇れるものなんだから保存すっぺ。
妻木技師は先人が守り続けてきた想いを酌んだうえで、知恵や技術を後世に伝える義務感を持って「恥ずかしいから電気消しなさい///(注:非露佛の意)」と主張する。
そして伊東”ガーゴイル”忠太の援護射撃はというと、
先ず、高山ロマン博士の論に対して、
ロマン①←そもそも、東大寺金堂の本尊として大仏が作られているため、大仏ありきで大仏殿が作られた訳では無いのだから「性質上云々」は間違いである。ロマン博士は「伽藍と大仏を一緒にしとくという考え方は時代遅れ。建物を保存したいなら移築すればいいじゃん」といっとるけど、東大寺は「金堂の本尊」という関係性から建物と大仏は不可分にゃのである。
ロマン②←1000年以上風雪雨露をしのぎ、幾たびかの兵火から大仏さんを守ってきた事実はなんぞ?
ロマン③←大仏様(天竺様)と言われる鎌倉時代の建築様式で作られ、木造の大架構は三国一の大伽藍の名に背かぬ姿を醜悪というの?もしかして、濃尾地震とか経年劣化とかで壊れた部分のこと言ってるのであれば、ぽぽぽぽーんじゃね?
ロマン④←当たり前じゃん。
とした上で次のように言うとるのデス。
①大仏は露佛とするべからず
②露佛は大仏を保存するにふさわしくにゃい
③大仏殿は鎌倉建築の代表として、木造の大架構建築として保存させるべき
※一部の発言、主張の「訳」はフィクションが含まれますデス。
さて、ここまでのところでは「また、文系脳かwww」とか思わなくも無いのだけれど、結果として現在も大仏殿が存在するという事実から、そーゆー扱いでも是非に及ばず。とはいえ、高山”ロマンポルシェ”林次郎博士はこのあと直ぐ亡くなられるのだが、怨念ガーとか呪いガーとかのオカルト学園な話は置いといて、背景を整理。
大まかな時系列はこちら
745年(天平17年)美濃地方でマグニチュード7.9の地震
749年(天平21年)聖武天皇「そうだ 大☆佛 つくろう」
751年(天平勝宝3年)大仏殿しゅん功(大仏は天平勝宝元年完成)
1096年(永長元年)マグニチュード8~8.5の東海沖地震で鐘が落ちる
1180年(治承4年)平清盛が息子(DQN)に火遊びさせて奈良炎上。もちろん大仏殿も炎上。パンクス(平家)とヘヴィメタル(源氏)のライブ(乱)は盛り上がりを見せ、クライマックスの壇ノ浦ライブはソールドアウトwww
1185年(文治元年)地震でまた鐘が落ちる
1190年(建久元年)源頼朝をパトロンとした重源上人プロデュースで再建(おニャン子クラブ的サムシング)
1567年(永禄10年)三好vs松永のガチバトルに巻き込まれて再び炎上
1709年(宝永6年)公慶上人プロデュースで再建(AKB的サムシング)
1880年(明治13年)建物劣化が著しいので改修計画&寄付金集めスタート
1885年(明治18年)近畿地方を大雨が襲い、さらに壊れる
1891年(明治24年)濃尾地震(マグニチュード8.0)によって、もっと壊れる&傾く。内務省から保存修復のため妻木技師派遣。改修計画をまとめる。
1894年(明治27年)日清戦争で物価等上昇。施工費高騰で工事ストップ
1898年(明治31年)古社寺保存法の特別保護建造物に指定されて予算が付く
→高山ポルシェ「太陽」にて露佛を主張
→妻木技師それに対し新聞等で反論(非露佛)
1899年(明治32年)技師関野貞による修繕計画がまとめられ、実測調査開始
→ガーゴイル忠太「建築雑誌」にて非露佛支持を表明
1902年(明治35年)高山林次郎(31)没
1904年(明治37年)奈良県技師加護谷祐太郎就任。日露戦争始まり、補助金貰えなくていろいろ停滞
1907年(明治40年)色々計画見なおしてやっと着工(明治大修繕)
1913年(大正2年)しゅん功
このあと、昭和44~55年にかけて昭和の大修繕なんぞ行われて現在に至る。
明治修繕は30年以上ごたごたやって完成。長引いたのは戦争によるインフレが主たる原因か?
事実を明らかにするには手持ち資料が少なすぎるが、想像するに、国粋主義者でもあった高山が寺の修繕費用より別の使い道(戦費等)に振れという牽制なのか、wikiさんによると、若くして病気を患っていた高山はニーチェのいう超人や日蓮に憧れていたらしく、デカイ佛、すなわち大仏はヒーローなので屋外に晒されてもへっちゃらなんだぜ?的お花畑思想だったのか・・・
結局の所、新たに施行された古社寺保存法によって特別保護建物の指定を受けなければ、実質的に明治の修繕工事は不可能となり、大仏殿は解体されていたかもね。寄付を募る大仏会なるものもあったみたいだけど、明治18年の大雨で滞るようなものだったみたいだし。そゆ方向からみると修繕維持費だけが問題であって、他は言いがかりとしか思えんのよね。
ところで東大寺はん。拝観料高こうおまへんか?
明治の大修繕のドタバタを経験しとるやさかい、ライフサイクルコスト(LCC)を考慮した保全計画をむこう100年くらいまで立てて、拝観者の増減なんぞ分析とか、もちろんしてるよねぇ~(チラッ)
<参考文献>
山崎幹泰「東大寺大仏殿明治修理における設計案の変遷について」日本建築学会計画系論文集535、2000年
伊東忠太「奈良大佛非露佛説」 日本建築学会「建築雑誌」第百五十四号、明治32年
鷲尾隆慶・平岡明海「大仏及大仏殿史」奈良大仏供養会記念、大正4年
福田静男「よみがえる鴟尾―大仏殿昭和大修理あれこれ―」綜芸舎、1989年
奈良国立博物館「特別展 東大寺公慶上人 江戸時代の大仏復興と奈良」平成17年
ながいけん「チャッピーとゆかいな下僕ども」大都社、2004年