やぶはな

Everybody Needs Somebody to Love.

愛(めぐみ)www

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1947年にMoMAから出版?されたフィリップ・ジョンソンの「ミース・ファン・デル・ローエ」の1975年再版版を入手する。

学生の時分、アントニン・レーモンドの事務所で働いていたことのある内藤恒方氏が建築計画系の講義の中で、ミースについて、留学時代に訪れたファンズワース邸の写真やフィリップ・ジョンソン本人との会話やグラス・ハウスの事なんぞを主として語っていたときに、「ミースの言葉で”less is more.”は有名だけど、本当に本人が言ったのかはよくわからない」と言っていたのを覚えております。
数年前にGAからファンズワース邸のディテール集が復刻し、いろいろとミースについて調べる機会があってやっとそれっぽい記述を見つける。
それが、上記のフィリップ・ジョンソンの「Mies van der Rohe」の四十九頁に

he has always been guided by his personal motto, “less is more.”

と書いてありますがな。フィリップ・ジョンソン著だけど。
まぁ、それで満足なんだけど。

満足ついでに、本の内容も図面や写真多くて良いのデス。
ドラマ「協奏曲」の田村正和になった気分で
「ミースは・・・美しい・・・」
とか、掠れた声で呟きたい(爆
※「協奏曲」:1996年のTBSドラマ。主演は田村正和、木村拓哉、宮沢りえ。有名建築家の田村正和がずぶ濡れのタキシード姿で海から登場。日本に上陸後、建築家を目指す勤労青年(木村拓哉)をこき下ろし、青年の彼女だった弁当屋のバイト娘(宮沢りえ)をNTRする鬼畜プレイでアルフィー(やめてあげて!バート・バカラックは瀕死の重傷よ!)。業界のドン的なゼネコンの社長に反発し、盗んだバイクで走り出す勢いのまま自分の設計した建物の工事現場にある、しょぼい網入り硝子の引き違い窓をマサカズタムラ自らの手でかち割るという、しょっぼいスキャンダルによって田村正和は業界から干される。事務所廃業。独り事務所に取り残され、買ったまま手に取ることのなかったミースの図面集をゆっくり読み進めながら「ミースは・・・」と呟くシーンは、酔った勢いで別腹の同い年の娘三人以上に同じ名前を付けてしまう程「パパはニュースキャスター」(1986年)なのデス。
ちなみに業界干された海坊主(古畑任三郎)に替わり、業界ドンの娘(木村佳乃)と婚約して、仕事、女、外車、なめプと、やりたい放題は、かつての勤労青年(木村拓哉)。ところで、業界のドンが住宅メーカーの社長とか、スーパーゼネコンをガン無視した世界観はどんだけショボイ業界なんだよ?そこそこ大きい公共施設の施工も工務店の大将(石倉三郎)が仕切ってるし。てゆうか、入札によって施工者は決められることのない不透明な世界観も歪デスがそこはイワノフの犬なのデス。
田村正和に取って代わった業界の若きスター建築家「ちょっまてよ」(笑)が設計した建物について記者から設計意図について質疑があったとき「それ(建築模型)見れば解るでしょ」と舐め腐った態度で請け答えする超建築家(嘲笑)が清々しいほどむかつきますwww
「ちょっま」はジャガー乗り回しているときに、とあるGSでNTRされた元カノ(サンタフェ)に偶然再会。田村正和とも別れたことを知ると、婚約者いるのに半ばストーカー化して給油する良いカモ。
ところが別のサンタフェストーカーに先を越されていろいろグズるgdgd展開に「事件は会議室で起きてるんじゃな!」くらいのテコ入れが欲しかったけど、結局、師匠(田村正和)と弟子(木村拓哉)のコンビでドミニク・ペロー設計のパリ図書館のパクリでコンペに入賞。その機会を活かせない業界のドンはハゲる。その娘はいい噛ませ犬。バイト娘(宮沢りえ)は行方不明。師匠弟子コンビは軽井沢の山荘へ逃亡。
改めて想い出してみると「裸の銃を持つ男」並に展開が酷いwwwwwwwwwwwwwww
ツッコミの練習のためにも、また観たいんだよぉwwww

閑話休題。
近代建築(モダニズム)の巨匠ミースおぢさんの「less is more.(小さいは正義※変態紳士的サムシングではない。違うからな!絶対に違うから!)」へのカウンターとしてポストモダンの刺客ロバート・ベンチュリが「less is bore.(何ソレ美味いの?)」とジャブを放った後、自著「ラスベガス」にて建築の「DUCK(アヒル隊長)」論を展開(※マヂ)。モダニズムの掲げる「形態は機能に従う」とした主張に対し、コーヒーカップの外形をしたコーヒーショップの建物を引き合いに出し「コーヒー屋(機能)がコーヒーカップの形(形態)になる」という必殺のネコパンチ。コーヒー噴くわぁwww

おもろいのはさ、モダニズムはそれ以前の様式に沿った建築、アカデミックなものから脱却し自由を求める的な流れのように思われているけど、装飾を排して機能的に大量生産し普及させるという部分は社会主義・共産主義的なところにマッチしやすく、一方で、工業化による生産効率の向上は経済を潤し非常に資本主義的要素をもってて、どちらも巨匠がネタにしてる美学的側面なんか関係無いわけで、その後のポストモダンによるヴァナキュラーなものへの回帰云々とか小難しいことは置いとくとして、アヒル隊長的建築は思想や主義主張関係なしに経済効果の延長として、コマーシャル的に勝手に登場して勝手に消費されていく。シュレディンガーのお猫サマではないけれど、R.ベンチュリみたいな人が観測したから一部の業界人がガタガタ言ってるだけで、一般市民様には関係のないことなんだよ。
だってさ、casaブルータスとか読んじゃう意識高い系の勘違いしてる人たちであっても、ミヌマルデザインな近代建築に憧れはしても、現実的にそこで生活を送るとなると、そのスタイルを維持するコストの多さにうんざりするわけで、ではポストモダン的なおバカ建築(昔々、おバカ建築探偵団というHPがありましたねw)に住みたいかと言われれば、嫌じゃん。
で、結局、面白みも無い狭くて陰鬱な建て売り住宅とか無駄にでこぼこしたプランのマンションとか「普通」という名の低品質な生活を甘受するのでしょう。
馬鹿馬鹿しくてやってられっかwww

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